古代中国の年表
前202~後8年
前漢 今ココ
項羽との争いに勝利した劉邦が建国。長安を都とし、郡国制を採用。武帝のときに全盛期を迎えた。武帝の死後は宦官や外戚が政治の実権を握り、外戚の王莽により滅亡。
目次
前漢の黄金期を実現
第6代皇帝の景帝が呉楚七国の乱を鎮圧したことで諸侯の権限は小さくなり、前漢は中央集権国家へとなりました。その流れを受けた第7代皇帝の武帝の時代に、前漢は黄金期を迎えました。
大月氏との同盟作戦
武帝は野心家
武帝は名前の通り、戦争を積極的に行う野心にあふれた皇帝でした。武帝は中国北方の遊牧民の匈奴と激しく争いました。匈奴は前漢にとっていずれ倒なければならないライバルです。
漢の建国者の高祖は匈奴に負けてましたよね。
高祖でも敵わなかった匈奴を倒すべく、武帝はある作戦を思いつきました。中央アジアの大月氏という国と同盟を結んで、匈奴を挟み撃ちにしようとしたのです。大月氏に同盟を申し込むべく、武帝は張騫(ちょうけん)という人物を使者として派遣しました。
前途多難の旅
前漢の人々には、大月氏という国がどこに位置するのかも分かりません。張騫は完全に手探りの状態で都の長安を出発し、大月氏に辿り着くまでに10年以上もかかりました。
長旅ですね..。無事同盟は結べたのですか?
残念ながら同盟は結べませんでした。大月氏にとっても匈奴は倒したい存在でしたが、張騫が到着した頃には大月氏は交易国家として豊かになっており、もはや匈奴への復讐心は消えていました。
残念過ぎます。せっかくの長旅が無駄になってしまった…
同盟締結には失敗したけれど…
張騫は大月氏と同盟を結べないまま帰国し、武帝に旅の報告をしました。
めちゃくちゃ怒られるんじゃないですか?なんなら死刑とか…
むしろその逆です。武帝は、張騫が持ち帰ってきた西域の情報に興味津々でした。武帝はその情報を活かして西方への勢力を拡大させました。前漢の最大領域を見てもらえればそのことがよく分かりますよ。

めちゃくちゃ左に飛び出してますね。大月氏にまで繋がってるし..!
衛氏朝鮮と南越も征服
ベトナム北部の南越という国を征服し、日南郡を設置しました。
さらに朝鮮半島では衛氏朝鮮を征服し、楽浪郡などの4郡を設置しました。
さらに朝鮮半島では衛氏朝鮮を征服し、楽浪郡などの4郡を設置しました。
武帝の征服意欲はすごいですね。
戦争はお金がかかる
塩・鉄・酒の専売
戦争というのは莫大な費用がかかるものです。武帝が対外遠征を繰り返すものですから、国は財政難に悩まされるようになりました。そこで武帝は、国内の商人が行っていた塩・鉄・酒の販売を国家で独占し、財政回復を狙いました。
均輸・平準
また、物価を調整するために均輸・平準という施策も行いました。「均輸」とは物資が余っている地域から買い、足りていない地域へ売ることです。「平準」は物価が低いときに物資を買い込むことで物価を上げ、物価が高いときに物資を売却して物価を下げることです。商品売買に国が直接手を出すことで、利益を得ようとする試みです。
優秀な役人が必要
郷挙里選で人材集め
少し話を戻します。武帝の1つ前の皇帝、景帝の時代に呉楚七国の乱が鎮圧されたことで前漢の社会はどう変化しましたか?
地方統治制度が、それまでの郡国制から事実上の郡県制に移行しました。
その通りです。郡県制に移行したことで、役人の数が今まで以上に必要になりました。かといって無能な人物を役人として採用するわけにもいきません。
そこで武帝は、地方長官が「うちの地域のこの人有能ですよ!」と推薦する人物を役人として採用する制度をとりました。これを郷挙里選といいます。
そこで武帝は、地方長官が「うちの地域のこの人有能ですよ!」と推薦する人物を役人として採用する制度をとりました。これを郷挙里選といいます。
役人よ、儒学を学べ!
郷挙里選で優秀な役人を地方に配置しちゃうと、また好き勝手に暴れられるんじゃないですか?
いい気づきですね。武帝もそれが心配です。そこで登場するのが儒学です。儒学の教えがどんなものだったか、覚えていますか?、
「目上の人を敬いなさい」みたいな感じですよね。
そうですね。武帝は、郷挙里選で採用した役人に儒学を徹底的に学ばせました。儒学は上下関係を重要視するので、皇帝に従順な役人に育て上げることができますよね。
この儒学を官学化(政治のよりどころとする。の意味)する政策は、董仲舒(とうちゅうじょ)という人物の助言を受けながら進められました。
この儒学を官学化(政治のよりどころとする。の意味)する政策は、董仲舒(とうちゅうじょ)という人物の助言を受けながら進められました。
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