プロフィール
  • 建国者:李淵
  • :長安
  • 存続期間:618~907年
  • 特徴①:李淵が建国し、6代目の玄宗に時代に最盛期を迎える
  • 特徴②:朝鮮半島や中央アジアにまで領土を広げた大帝国

ここまでの流れ

隋王朝は約300年ぶりに中国を統一した。しかし2代目皇帝の煬帝の高句麗遠征失敗をきっかけに各地で反乱が起こり、隋は弱体化した。

李淵

プロフィール
  • 人物:唐の建国者
  • 功績・政策:隋末の反乱に乗じて挙兵し、隋を倒した。
  • 在位:618~626年
人

隋を倒して建国

唐の建国者は李淵(りえん)です。末の反乱の中で挙兵し、618年に隋を倒して唐を建国しました。彼はもともと隋の官僚で、隋の2代目皇帝である煬帝のいとこにあたる人物でした。

息子に退位させられる

李淵は任期が8年だけって、やけに短いですね。

李淵は息子の李世民(りせいみん)に皇帝の座を退位させられたのです。李世民は「太宗」として2代目皇帝に即位し、安定した政治を行います。
MEMO
李淵は暗殺などをされたわけではなく、退位後は静かな隠居生活を送った。

太宗(李世民)

プロフィール
  • 人物:唐の2代目皇帝。安定した政治によって繁栄をもたらす(貞観の治)。
  • 功績・政策:三省六部制を確立させる
  • 在位:626~649年
人

貞観の治

李世民は、父親の李淵を追いやって2代目皇帝に就任しました。李世民はとても優秀で、唐前半期の繁栄をもたらしました。彼の政治は「貞観の治」と称され、賛美されました。
そこまで称賛されるなんて、李世民は何をした人なんでしょうか?

李世民は、唐の統治体制の基盤を築きました。次で詳しく説明します。

三省六部

李世民は、三省六部という統治体制を築きました。

図で見てみましょう。
図
POINT
三省
  • 中書省:詔勅(皇帝の命令書)を作成する
  • 門下省:中書省が作成した詔勅を審議する
  • 尚書省:門下省を通過した詔勅を「六部」を動かして実行する
六部(りくぶ)
  • 吏部:官僚の人事を行う
  • 戸部:国家財政を運営する
  • 礼部:国の儀式や外交を行う
  • 兵部:軍事を行う
  • 刑部:法を運用する
  • 工部:土木工事や公共建築を行う

三省六部の他には、役人を監視する機関として御史台が置かれました。
MEMO
たとえ皇帝の命令であっても、門下省の審議を通過しないと実行されない。なので、門下省は絶大な権力を持っていた。

高宗

プロフィール
  • 人物:唐の3代目皇帝。唐の最大領土を実現。
  • 功績・政策:羈縻(きび)政策で征服地を統治
  • 在位:649~683年
  • 逸話:病弱で、部下に政治を任せることが多かった。
人

羈縻政策

  • 羈縻政策:征服した周辺民族の各部族長に自治を与え、異民族の文化や宗教を容認した政策。

高宗は、周辺地域を征服して唐の最大領土を実現しました。領土を拡大する上で征服した異民族を統治するために、高宗は羈縻政策をとりました。厳しく取り締まるのではなく、ゆるやかに異民族を繋ぎ止めたのです。

都護府

羈縻政策は、異民族に統治を任せるスタイルです。これではいつ反乱が起こされるか分かりません。なので高宗は征服地に都護府を設置し、異民族の自治を監督しました。
MEMO
都護府には官僚と軍隊が駐屯した。

病気がちな皇帝

高宗は病弱な皇帝でした。そのためあまり主導権を握ることができず、在位の後半は皇后(皇帝の妻)の武則天に実権を握られました。

則天武后

プロフィール
  • 人物:中国史上唯一の女性皇帝
  • 功績・政策①:国号を唐から周に改める
  • 功績・政策②:科挙官僚を積極的に登用
  • 在位:690~705年
人

息子を廃位に追い込む

則天武后はもともと第3代皇帝の高宗の皇后で、病弱だった高宗に代わって実権を握ることもありました。高宗の死後、子の中宗を皇帝の座から引きずりおろして、則天武后自ら皇帝と称しました。
実の息子を追いやって皇帝に…凄い母ですね。

MEMO
皇帝に即位した則天武后は国号を「周」に改めた。

科挙官僚の積極登用

則天武后は、科挙官僚を積極的に登用しました。

POINT
科挙官僚の台頭により、それまで唐で強い権力を持っていた貴族の力が弱まった。

即位の仕方こそイメージは悪いかもしれませんが、決して則天武后の政治の内容は悪くありませんでした。

玄宗

プロフィール
  • 人物:唐中期の皇帝。治世の前半は唐に繁栄期をもたらし「開元の治」と称されたが、後半は楊貴妃を寵愛するあまり政治が乱れた。
  • 功績・政策:府兵制に代わって募兵制を実施
  • 功績・政策:軍の指揮官として節度使を設置
  • 在位:712~756年
人

開元の治

玄宗は治世の前半と後半で評価が極端に分かれる皇帝です。前半には、募兵制の採用と節度使の設置を行いました。
  • 募兵制:お金で兵士を集める制度
  • 節度使:兵士の指揮官として、国境付近を防衛する
POINT
当時の唐では、商業発達により農民が没落したことで、隋から受け継がれてきた府兵制のシステムが崩れていた。そんな府兵制に代わる徴兵制度として、募兵制を採用した。

このように治世前半の玄宗の政治は優れており、それは「開元の治」と称されました。

楊貴妃の出現

堅調だった玄宗の政治ですが、一人の女性の出現によってぐらつき始めます。その女性が「世界三大美女」とも称される楊貴妃です。

楊貴妃を愛するあまり、玄宗は政治のことはほったらかしになり、唐は混乱に陥りました。

安史の乱

この混乱期に、節度使の安禄山と史思明が反乱を起こしました。この反乱を、二人の頭文字をとって安史の乱(755~763)といいます。
節度使と言えば、もとは玄宗が設置した役職でしたね。

この反乱を唐は自力で抑えることができず、ウイグルの援助によってようやく鎮圧しました。これ以降、節度使は地方行政の権力を握って「藩鎮」として自立していきました。
MEMO
反乱の責任を取らされて楊貴妃は自殺し、玄宗は皇帝の座を退いた。

衰退~滅亡

両税法

  • 両税法:租調庸制に代わって施行された税制度。農民の土地私有を認め、所有している土地や財産を基準に徴税する。

780年、唐は財政を再建するためにそれまでの租調庸制に代わって、両税法を採用しました。春・秋の2回徴税するので、「両税」というネーミングです。
POINT
農民の没落などにより均田制が崩壊し、誰にどれぐらい土地を与えたかを把握できなくなった。その結果、均田制の上に成り立つ租調庸制も崩壊した。

黄巣の乱

さらに、唐は塩を専売制にしました。これは、国だけが塩を売る権利を独占することを意味します。塩の密売人であった黄巣はこれに反発し、黄巣の乱(875~884)という反乱を起こしました。黄巣の乱は中国全土に広まり、唐の衰退を加速させました。

朱全忠により滅亡

そして907年、節度使の朱全忠によって唐は滅ぼされました。