プロフィール
- 建国者:文帝(楊堅)
- 都:大興城(長安)
- 領土:中国全土
- 存続期間:581~618年
- 特徴①:西晋が滅んだ後、北周を乗っ取った楊堅(文帝)が建国
- 特徴②:分裂状態だった中国が約300年ぶりに統一される
- 特徴③:2代目皇帝、煬帝が大運河を完成させ中国の南北を結んだ
ここまでの流れ
晋(西晋)の滅亡後、中国は南北朝時代という分裂期に入った。1世紀半に及ぶ南北朝時代の末期、北朝の北周出身の軍人、文帝が中国再統一の動きを見せる。
文帝(楊堅)
プロフィール

- 人物:隋の初代皇帝
- 在位:581~604年
- 功績・政策①:中国を統一
- 功績・政策②:科挙制度を実施
- 功績・政策③:財政・軍事の基礎を固める
- 性格:熱血仕事人間
中国を統一
北朝の北周出身の軍人として力をつけた楊堅は581年に隋王朝を開きました。楊堅は南朝の陳を倒して南北朝時代を終わらせ、中国を再統一することに成功しました。
中国統一は、西晋の滅亡以来約300年ぶりのことでした。
科挙の実施
- 科挙:隋の時代に始まった官吏登用制度。官僚を実力試験で選抜した。
文帝は、科挙制度を始めたことでも有名です。試験の点数によって、官僚の採用・不採用を決定しました。科挙制度により、身分や家柄に関係なく、優秀な人材を全国から集めることが可能となりました。
MEMO
科挙の競争率は非常に高く、一時は倍率が3000倍に達することもあった。財政・軍事の基礎を固める
文帝は、均田制・租調庸制・府兵制によって財政・軍事の基礎を固めました。
- 均田制:土地を国民に与える制度
- 租調庸制:均田農民から税を徴収する制度
- 府兵制:均田農民から徴兵する制度
これらの制度は南北朝時代から存在していたもので、文帝はそれらの制度を一体化した政策をとりました。
煬帝
プロフィール

- 人物:隋の2代目皇帝
- 在位:604~618年
- 功績・政策①:大運河の建設
- 功績・政策②:高句麗遠征に失敗
- 性格:中国史を代表する暴君
- 逸話:2013年、工事現場から煬帝の墓が発掘された。
中国史に残る暴君
煬帝(ようだい)は中国史でもトップクラスに悪名高い皇帝です。「煬帝」という名前に注目してください。普通、この漢字だと読み方は「ようてい」になるはずですよね。しかし中国から日本に煬帝の名が伝わる際に、「コイツは皇帝の器じゃない」とわざと間違った読み方で伝えられたのです。
そんなに嫌われてるんですか…一体何をした人なのか気になります。
大運河の建設
煬帝は長江と黄河を結ぶ大運河の建設を行いました。長江と黄河は中国の二大河川です。それらを結んで、物流を活発にしようとしたのです。
もちろん、それだけの規模の運河を作るには莫大な予算と人手が必要になります。建設工事には女性や子供まで動員され、過酷な労働をさせました。運河の全長は約2500kmで、工事には約100万人が動員されました。

MEMO
煬帝が建設した運河は後の王朝で大いに活用され、現在も使われている。高句麗遠征の失敗、滅亡へ
当時、朝鮮半島には高句麗という国がありました。煬帝は高句麗に計3回遠征しましたが、すべて失敗しています。
遠征のときにはもちろん民衆が兵士として駆り出されます。大運河建設では労働者として散々こき使われ、徴兵された遠征はすべて失敗です。煬帝に怒った民衆たちは反乱を起こし、煬帝は殺害され、隋は滅亡しました。
煬帝は民衆の不満を買いすぎたんですね。