秦【古代中国】

古代中国の年表
前5000年頃~
中国最古の文明。黄河文明と長江文明を合わせた総称。
前16世紀頃~前11世紀頃
中国最古の王朝。青銅器や甲骨文字を使用し、神権政治が行われた。
前11世紀頃=前8世紀頃
皇帝の血縁者に地方を統治させる封建制を採用。鎬京に都をおいたが、異民族の侵入を受けて東の洛邑に遷都
前770~前211年
洛邑への遷都後に周王が弱体化し、各地の小国が中国の覇権を争う時代。諸子百家が登場。
前221~前206年
秦 今ココ
始皇帝により建国。中央集権的な郡県制を行い、「焚書・坑儒」で儒教を弾圧するなど厳しい統治。末期には反乱が頻発し、15年で滅亡。
前202~後8年
項羽との争いに勝利した劉邦が建国。長安を都とし、郡国制を採用。武帝のときに全盛期を迎えた。武帝の死後は宦官や外戚が政治の実権を握り、外戚の王莽により滅亡。
8~23年
建国者の王莽が、周時代の制度を復活させようと時代錯誤な改革を行った。赤眉の乱により滅亡。
25~220年
劉秀(光武帝)が漢を復活させ建国。末期の農民反乱により全国各地に軍事集団が割拠し、滅亡。

戦国時代の終結

ここまでのおさらいです。周王朝時代の後半は、「戦国の七雄」という7つの強国が中国の覇権を巡って争う時代でしたよね。
まさに戦国時代という感じでした。

そんな中、戦国の七雄の中の1つである「」が他の6国を倒して、中国初の統一王朝をたてました。秦は都を咸陽(かんよう)に置きました。
秦

商鞅の改革

どうして七雄の中でも秦は強かったんですか?

秦が強かった理由の一つに、春秋・戦国時代の前4世紀に登場した諸子百家の中の一人、商鞅(しょうおう)という人の功績があります。商鞅は「法家」の考えを持った人物でしたね。
「法によって人の行動を制限すれば、国はまとまるんだ。」みたいな思想ですよね。

その通りです。秦は商鞅を政治アドバイザーとして迎え入れました。商鞅は法によって国民を統制し、王に権力が集中する中央集権的な国づくりに励みました。
春秋・戦国時代は周王の権力が弱かったですけど、秦の時代に持ち直したんですね。

始皇帝の誕生

商鞅の改革が大当たりした秦は強国化し、前221年、「政」という人物の時代に中国を統一しました。政は自らを「皇帝」と名乗りました。中国史で初めて「皇帝」という称号を使ったので、彼のことを「始皇帝」と呼びます。
「始皇帝」って人の名前だと思ってました..

始皇帝の統治~中国を1つに~

始皇帝が行ったさまざまな施策からは、「それまでバラバラだった中国を1つにまとめ上げるんだ」という意思が感じ取れます。1つずつ見ていきましょう。

郡県制

始皇帝は、郡県制という地方統治を実施しました。
全国に「」を置き、さらに郡を「」に分割し、始皇帝が任命した役人を地方に派遣する制度です。
郡県制にはどんな狙いがあったんですか?

始皇帝の命令が国中に行き渡るようにすることです。まさに中央集権国家です。
図

焚書・坑儒

始皇帝の時代にも、法家の思想が重宝されました。
法家の思想は「法で国民の動きを制限する」というものなので、始皇帝とは相性が良さそうですね。

そんな法家と違って、儒家の思想は始皇帝にとっては厄介でした。儒家の「国民は君主に礼を尽くすけど、君主も良い政治をしましょうね。」という理念が、始皇帝は気に入らなかったのです。
その結果始皇帝は儒家の書物を焼き払い(焚書)、儒家を生き埋めにして殺してしまいました(坑儒)。
始皇帝厳しすぎます..

貨幣統一

始皇帝はそれまでバラバラだった貨幣の種類を統一して、半両銭の使用を強制しました。貨幣統一によって国内の取引をスムーズにして、国を豊かにしようとしたわけです。

兵馬俑

始皇帝の墓に一緒に埋葬されている「兵馬俑(へいばよう)」は、始皇帝の権力の強さを物語っています。
へいばよう..?何のことやら。。

兵士や馬そっくりの人形です。始皇帝は生前、部下に対して 「私が死んだら、君らも一緒に墓に入りなさい。」と命じていました。たぬき君が始皇帝の部下なら、どうしますか?
いくら命令でも、死ぬのは嫌ですよ!始皇帝が死んだ後ならなおさらです。

そうですよね。当時の始皇帝の部下たちも同じ考えでした。「自分たちが墓に入るのはゴメンだから、代わりに人形入れとこう。」というわけです。
遺跡

万里の長城

秦の北方には、匈奴という強敵がいました。匈奴の侵入に備えるために、始皇帝は戦国時代から各国が独自に作っていた長城を繋ぎ合わせ、万里の長城にしました。
2000年以上前から、あの万里の長城は存在してるんですね…

山

南海郡

万里の長城は北の防御です。始皇帝は南のベトナムにも遠征を行い、南海郡を設置しました。

急すぎる改革に民衆が反発

陳勝・呉広の乱

一気に始皇帝の政策を紹介してきました。始皇帝はこれだけの施策をたった11年の間に実行しました。
ちょっと改革のペースが急すぎないですかね..僕が秦の国民ならついていけないです。

法で厳しく縛られ、思想は統制され、長城の建設工事に駆り出され..ですからね。こうした始皇帝の厳しい改革に、民衆の不満はどんどん高まっていきました。始皇帝の死後、その不満が爆発したのが陳勝・呉広の乱です。

開き直った農民たちの大反乱

きっかけはささいなことでした。ある日、長城の警備に動員された農民たちが大雨に見舞われ、到着の期日に間に合わなくなってしまいました。
遅刻がどうして反乱に繋がるんですか?

秦といえば法で厳しく国民を取り締まりましたよね。そんな秦において遅刻は死刑だったんです。
厳しすぎる..!

道中で遅刻が確定してしまった農民たち。その中から陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)という人物が、「どうせ死刑になるんだったら反乱おこしてやろうぜ」と立ち上がりました。以前から秦の政治に不満を持っていた農民たちはこの2人に賛同し、数万人規模の農民反乱が起こりました。
とても熱い展開ですね!反乱の結果どうなったんですか?

勢いで始めたに過ぎない反乱ですから、計画も何もありません。結局1年足らずでこの反乱は鎮圧されてしまいました。

各地で反乱が勃発

陳勝・呉広の乱は失敗に終わったものの、この反乱をきっかけとして秦に不満を持つ人びとが次々に挙兵しました。
各地で相次ぐ反乱によって秦は弱体化し、たったの15年で秦は滅亡してしまいました。

確認テスト

答え.咸陽
答え.商鞅
答え.郡県制
答え.焚書坑儒
答え.匈奴
答え.陳勝・呉広の乱

次の解説
高祖~呉楚七国の乱【前漢①/古代中国】高祖~呉楚七国の乱【前漢①/古代中国】 より詳しく勉強したい人はこちら(外部サイトへジャンプします。)
参考 秦/世界史の窓

古代中国