太武帝による建国~分裂【北魏】

ここまでの流れ

西晋末期の八王の乱をきっかけに、五胡といわれる5つの北方異民族が中国に侵入しました。そして五胡の1つである匈奴によって西晋は滅亡し、華北は異民族同士が争う五胡十六国時代に入りました。

異民族王朝の誕生

異民族同士が華北統一を巡って争う五胡十六国時代に、安定をもたらした国が北魏(386~534年)です。五胡の1つである鮮卑(せんぴ)の拓跋氏という一族が建国しました。
異民族同士の争いを終わらせたのも異民族なんですね。中国人が全く関係してこない…

北魏は近隣の国々を征服し、439年に太武帝という人物が華北(中国北部のこと)を統一しました。この時点で中国の北部と南部にそれぞれ王朝が並立したので、ここからの時代を南北朝時代と言います。

太武帝の政治

道教を国教化

太武帝は道教を国教にしました。華北をまとめるために、仏教のように外国から伝わった宗教ではない、新たな宗教を求めたからです。国教化にあたっては、寇謙之(こうけんし)という指導者を重用しました。
POINT
道教:諸子百家の道家の思想に民間思想などが融合してできた宗教。

柔然を撃退

太武帝は、北方のモンゴル系遊牧国家の柔然を撃退しています。

孝文帝

均田制・三長制

471年、北魏の第6代皇帝に即位したのが孝文帝(こうぶんてい)です。孝文帝は均田制という土地制度や、三長制という村落制度を定めました。
POINT
  • 均田制:性別や年齢に応じて農民に土地を配分し、税収入の増加を図った制度。地方豪族の大土地所有を制限する狙いもありました。
  • 三長制:農民の戸籍調査を推し進めた制度。農民の所有地は戸籍に登録され、均田制の実施を支えました。

漢化政策 ~中国への憧れ~

ここでおさらいですが、北魏は鮮卑による国家でしたね。孝文帝は中国人への憧れから漢化政策を進めました。国民が鮮卑の服装や言葉を使うことを禁止して、都を平常から洛陽に移しました。
洛陽に都を移すことも漢化政策なんですか?

後漢、魏、西晋時代は洛陽に都が置かれましたからね。THE・中国な都市です。

鮮卑の誇りを胸に、東西分裂

孝文帝の漢化政策は、軍人階層からの反発を受けました。彼らには、五胡十六国時代を戦い抜いたんだという鮮卑族としての誇りがあります。そして不満が爆発した軍人たちは反乱を起こし、534年に北魏は東西に分裂しました。
異民族が入ってきたり、分裂したり、ややこしい時代ですね…

分裂が多いという意味で言うと、中国史で最も複雑な時期かもしれませんね。北魏分裂後の北朝を図にまとめてみました。
図
ややこしすぎますよ…

最後には北周が生き残った、という点だけでも押さえておきましょう。

確認テスト

答え.拓跋氏
答え.太武帝
答え.道教
答え.寇謙之
答え.孝文帝
答え.漢化政策
答え.洛陽