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ムガル帝国をわかりやすく解説

ざっくり要点
  • 16世紀にインドにできたイスラーム王朝のこと
  • タージ=マハルができたのもこの時代
  • ヒンドゥー教徒に優しくしたり、厳しくしたりした

ムガル帝国とは? ひとことで

ムガル帝国は、16~18世紀にインドを支配したイスラーム王朝です。
ムガル帝国全盛期の領域

ムガル帝国の最大領域(17世紀末頃)

初期

初期のムガル帝国を見ていきましょう。

バーブルが建国

1526年、バーブル(在位1526~30)という人物がムガル帝国を建国しました。バーブルはティムール朝で生まれましたが、間もなく遊牧民ウズベクによってティムール朝は滅亡しました。バーブルはティムール朝の復興を掲げて北インドでムガル帝国を建国したのです。

「ムガル」=「モンゴル」

バーブルの注目ポイントはその血筋です。バーブルは、自身がティムールの子孫であることを主張していました。ティムールと言えば、ティムール朝の創始者ですね。さらにティムールはチンギス=ハンの子孫であると自称していました。つまりバーブルはチンギス=ハンの遠い子孫ということになります。

「ムガル」の語源は「モンゴル」なのです。

ヒンドゥー教徒の融和策

イスラーム教とヒンドゥー教の性質

ムガル帝国の君主はイスラーム教徒ですが、国民の8割はヒンドゥー教徒でした。ヒンドゥー教はインドで生まれた宗教ですから、当然ですね。
問題は、イスラーム教とヒンドゥー教が真逆の宗教であることです。

  • イスラーム教:一神教で、神の前では皆平等。
  • ヒンドゥー教:多神教で、身分制度(カースト制)有り。
いかにして両教徒が対立せずに暮らしていく国を作るか、ムガル帝国にとって悩ましい問題でした。

アクバルの融和政策

3代目君主のアクバル(在位1556~1605)は、この両宗教の融和政策を巧みに進めていきました。

アクバルの融和政策
  1. イスラーム教徒以外に課していた人頭税(ジズヤ)を廃止
  2. ヒンドゥー教徒を官僚に起用
  3. ヒンドゥー教徒の女性と結婚
特筆すべきは1番です。人頭税とは、年齢・野力に関わらず国民一人一人に課せられる税金です。イスラーム教の国では、異教徒のみに人頭税が課されるのが慣習でした。「イスラーム教を信仰していないことへの罰金」だと言えるかもしれません。
アクバルはこの慣習を破棄し、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の税制面での平等を実現したのです

ムガル帝国の解体

アウラングゼーブ帝

6代目君主のアウラングゼーブ(在位1658~1707)帝の時代に、ムガル帝国の領土は最大になりました。(地図はこのページの上部に載せてあります。)

領域こそ最大になりましたが、弱体化が進んだ時代でもありました。

ヒンドゥー教徒への圧迫が復活

アウラングゼーブは「くそ真面目」なイスラーム教徒でした。断食をし、派手な宝石をつけず、綿素材の衣服をまとう質素な暮らしを忠実に行いました。しかし真面目過ぎるがゆえに、アウラングゼーブはヒンドゥー教徒を弾圧する政策をとったのです

アウラングゼーブのヒンドゥー教徒弾圧
  • ヒンドゥー教の寺院を破壊
  • 異教徒への人頭税を復活

せっかくアクバルがヒンドゥー教徒に優しくしたのに、逆戻りです。

弱体化

ヒンドゥー教徒弾圧策によってアウラングゼーブは民衆からの支持を失い、国内各地で反乱が起こりました。
混乱状態に陥ったムガル帝国に、追い打ちをかけるようにイギリスやフランスのヨーロッパ勢力が進出し、帝国はどんどん弱体化していくのでした。

ムガル帝国 まとめ

まとめ
  • ムガル帝国は、16~18世紀にインドを支配したイスラーム王朝である。
  • ティムール朝で生まれたバーブルが北インドでムガル帝国を建国した。
  • アクバルは異教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止し、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和を図った。
  • 熱心なイスラーム教徒だったアウラングゼーブは人頭税を復活させ、民衆の反発を招いた。