明王朝(洪武帝/建文帝/永楽帝)をわかりやすく解説

14世紀に成立した王朝「明」について紹介します。

ここまでの流れ

13~14世紀は、モンゴル人による「元」という国が中国を支配していました。当時の漢民族(中国人のこと)はモンゴル人に仕える立場でした。
しかしやがて元は財政難に陥り、紅巾の乱という反乱が起こります。この反乱では朱元璋(しゅげんしょう)という貧農民が活躍し、新たに明を建国しました。

明のプロフィール
  • 建国者:朱元璋
  • :南京→北京
  • 領土:中国全土
  • 存続期間:1368年~1644年
  • 特徴①:これまでのモンゴル民族による支配を終わらせ、漢民族支配を復活させた。
  • 特徴②:今日の中国に続く「北京」を中心として繁栄した。

洪武帝(朱元璋)の政治

皇帝に即位した後から、朱元璋は「洪武帝」と呼ばれるようになります。
プロフィール
  • 人物:明の建国者。農民出身。
  • 政策①:中書省を廃止にするなどして、皇帝に権力を集中させた。
  • 政策②:「魚鱗図冊」や「賦役黄冊」などで国民を管理した。
  • 在位:1368~98年
  • 逸話:治世の間は家臣を殺し続け、その数は数万人にのぼった。
洪武帝の肖像画

権力を自分に集める

洪武帝は、権力を自分に集中させるためにさまざまな政策を打ち出しました。それらをひとまとめにして紹介します。

洪武帝の政策

中書省を廃止

中書省とは、皇帝の命令を受けて「勅令(命令書)」を作成する機関です。もともとは唐の時代に生まれた機関です。廃止した中書省の代わりに、洪武帝自ら勅令を作成しました。


丞相を廃止

丞相(じょうしょう)は、皇帝の補佐役にあたる役職です。「俺が全て決める!皇帝にサポートは要らない!」というわけです。


六部を皇帝直属に

六部は行政を担う6つの機関の総称です。こちらも唐の時代に生まれたものです。六部への命令を直接皇帝が出すことで、政治をコントロールしようとしました。


朱子学を官学化

朱子学は上下関係を重んじる学問です。朱子学を官学化(官僚の必須学問にすること)で、皇帝に従順な官僚を育てようとしました。

POINT
皇帝に権力を集中させる体制を作ることで、元の時代から続く混乱をおさめようとしました。

海禁政策

洪武帝は、民間人の海上貿易を禁止しました。
外国と貿易すると地方の港町は発展します。その結果、地方が皇帝の言うことを聞かなくなる事態を恐れたのです。

「魚鱗図冊」と「賦役黄冊」

洪武帝は、国民を管理するために「魚鱗図冊」と「賦役黄冊」という2つの台帳を整備しました。

  • 魚鱗図冊:土地台帳。誰がどの土地を所有しているかをまとめた。
  • 賦役黄冊:租税台帳。誰がどれだけの税金を納める必要があるかをまとめた。

里甲制

国内の治安維持と徴税のために実施した制度が里甲制です。農民を110戸ごとのグループに分け、里老人(各グループ内のリーダー格の人物)が農民を管理するシステムを整備しまいた。

衛所制

軍事面は衛所制によって強化されました。一般人とは別の軍人用の戸籍を用意し、彼らに軍事訓練を受けさせて国防を強化しました。

六諭で民衆を教化

六諭とは、朱子学の教えを簡単な6か条にまとめたものです。六諭は李老人を通して里内の農民に伝えられ、国内に朱子学を浸透させました。

以上、洪武帝の政策でした。権力を自分に集中させた点を特に押さえましょう。

建文帝の時代

2代目の建文帝はわずか4年で皇帝の座を降りています。
建文帝は洪武帝の孫でした。洪武帝の跡を継ぐはずだった長男が若くして病死したので、代わりに建文帝が皇帝に即位したのです。

皇帝一族を排除

ところが建文帝は若かったのもあり、側近の人物にそそのかされて皇帝一族(建文帝から見て父の兄弟)の勢力を削減しようとしたのです。

靖難の役

これにはもちろん皇帝一族は猛反発しました。1399年、洪武帝の子である燕王(えんおう)がクーデタを起こし、そのまま永楽帝として3代目皇帝に即位しました。この事件を靖難の役(せいなんのえき)といいます。

MEMO
建文帝はこの混乱の中で行方不明となりました。当時24歳でした。

永楽帝の時代

クーデタから皇帝に即位した、第3代皇帝の永楽帝を紹介します。
プロフィール
  • 人物:明の第3代皇帝。明の黄金期を実現。
  • 政策:積極的に対外遠征を行った。
  • 政策:鄭和を南海遠征に派遣した。
  • 在位:1402~24年
永楽帝の肖像画

北京に遷都

永楽帝は明の首都を南京から北京に移転しまいた。建文帝の時代には、永楽帝は北京の統治を任されていました。その背景から、自身のかつての本拠地である北京に遷都したのです。

世界遺産
天壇

天壇

明、清王朝の皇帝が天を祭った祭壇。1420年に永楽帝が北京に建設した。明の歴代皇帝はここで毎年「祭天」という儀式を行った。

積極的な対外遠征

初代の洪武帝は対外政策に消極的でしたが、永楽帝は積極的に外国へ出ていきました
永楽帝自ら軍を率いて北はモンゴル高原、南はベトナムへ遠征しました。

鄭和の大航海

永楽帝は鄭和(ていわ)という人物をを南海遠征に派遣しました。鄭和はイスラーム教徒の宦官(男性器を去勢され官僚のこと)です。この遠征の目的は、周辺国に対して朝貢を呼びかけることです。

  • 朝貢:属国から貢ぎ物を受け入れ、そのお返しに返礼品を属国に渡す貿易形態のこと。
鄭和の大航海の結果、十数カ国が明の属国となりました。

明王朝初期 まとめ

まとめ
  • 紅巾の乱で頭角を現した朱元璋は明を建国し、洪武帝として即位した。
  • 中書省を廃止、六部を皇帝直属にするなどして、洪武帝は権力を自分に集中する政策をとった。
  • 建文帝は皇帝一族の勢力を削ろうとしたため反感を買い、永楽帝が挙兵して皇帝に即位した。(靖難の役)
  • 永楽帝はモンゴルやベトナムに積極的に対外遠征を行った。永楽帝の時代に明は黄金期を迎えた。
  • 永楽帝は鄭和を南海遠征に派遣し、周辺国への朝貢を呼びかけた。