マウリヤ朝をわかりやすく解説

マウリヤ朝とは?

マウリヤ朝とは、前322年頃~前185年頃に存在したインドの王朝です。インダス川流域からガンジス川流域を統一した初めての国家でした。

マウリヤ朝の成立期

マウリヤ朝が成立したきっかけ・経緯を見ていきましょう。

アレクサンドロス大王の東方遠征

ウマイヤ朝の成立にはアレクサンドロス大王が関わっています。アレクサンドロス大王はギリシア北部のマケドニアを出発して東へどんどん遠征を仕掛け(東方遠征)、ついにインド西北のインダス川まで到達しました。
しかし長旅に疲れ果てた部下たちが「もう引き返しましょう」とアレクサンドロス大王に懇願し、東方遠征はインダス川でストップしました。マケドニア-インダス川間は直線距離にしても5000kmありますから、疲れるのも無理はありません。

いつまでもバラバラじゃだめ

なんとかアレクサンドロス大王が引き返してくれたものの、彼の部下たちがインダス川流域を支配したままです。インドの人々は「もし攻めてこられたらどうしよう。」と不安になります。当時のインドはマガダ国のナンダ朝が有力ではあるものの、他にも小国家が分立しており、まだバラバラの状態でした。分裂状態で到底勝てるわけないと焦るインドの国たちは、少しずつまとまり始めます

アレクサンドロス大王という強大・共通の敵をきっかけに、インドがまとまっていくのです。

チャンドラグプタがインドを統一

前317年頃、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝を倒し、ウマイヤ朝を創始しました。チャンドラグプタはその後すぐに西北インドへ向かい、アレクサンドロス大王が残したギリシア人たちをインド世界から追い出しました。インド半島の南部にも進出し、ウマイヤ朝はインド史上初めて、ガンジス川とインダス川を合わせた統一王朝となりました。都はガンジス川中流域のパータリプトラに置かれました。

マウリヤ朝の最盛期

マウリヤ朝は前3世紀のアショーカ王のときに最盛期を迎え、領土が最大になりました。アショーカ王は、マウリヤ朝創始者のチャンドラグプタの孫にあたります。
アショーカ王はダルマ(仏法=仏教における倫理観のようなもの)に従った政治を行い、国内各地に石柱碑と磨崖碑をつくって国民に仏教の教えを広めていきました。

MEMO
アショーカ王は元々暴虐な性格でしたが、征服戦争で多数の犠牲者を出したことを後悔し、仏教に帰依していきました。

衰退期

アショーカ王の死後、マウリヤ朝は分裂と衰退に向かいます。そしてアショーカ王の死から約50年後の前180年に滅亡しました。
マウリヤ朝の初期は、国内に地域格差がありました。ガンジス川流域(都のパータリプトラなど)のみが軍事的・経済的・文化的に他の地域を圧倒している状態です。しかしそこから帝国が統一される過程で、先進地域から地方の後進地域に技術や文化が流出し、マウリヤ朝内部の地域格差が小さくなったのです。これが地方民族の独立を招いてしまいました。

都と地方がバランスよく発展した結果、分裂してしまうとは皮肉なものです。