古代中国の年表
25~220年
後漢 今ココ
劉秀(光武帝)が漢を復活させ建国。末期の農民反乱により全国各地に軍事集団が割拠し、滅亡。
建国者・劉秀 ~控えめな皇帝~
前漢の滅亡後に起こった新王朝は、赤眉の乱によって15年で滅亡してしまいました。この反乱に乗じて立ち上がったのが、劉秀(りゅうしゅう)です。劉秀は漢王朝の血を受け継ぎながらも控えめな性格で、周囲の度重なる後押しの結果、後漢の皇帝に就任して光武帝となりました。後漢では都は洛陽(らくよう)に置かれました。

なんだか今までの皇帝のイメージと違いますね。
そうですね。実際、光武帝を始めとして後漢皇帝の権力は強くありませんでした。皇帝の代わりに勢力を増したのが、豪族と呼ばれる地方の有力者たちです。
東西交易で大帝国へ
皇帝の権力が弱いってことは、後漢もすぐ滅亡しちゃったんじゃないですか?
そんなことはありませんよ。後漢は後25年の建国から約200年間も存続し、しっかり大帝国へと成長しました。存続期間で言うと前漢と同じぐらいの長さですね。
どうして後漢は繁栄できたんでしょう?
ズバリ、東西交易です。前漢の時代に張騫という人物がいたのを覚えていますか?
西方の大月氏国を求めて長旅をした人ですよね。
そうです。張騫の旅によって、中国と西方の交易道が拓かれました。後漢王朝でも張騫の功績にあやかって、西方との貿易を進めたというわけです。
班超・甘英のローマ帝国探し
東西交易で繁栄した後漢は、当然西域の統治に力を入れます。そこで、班超(はんちょう)という武将を西域都護(中国西部を統治する役職)に任命しました。
班超は部下の甘英(かんえい)を「もっともっと西へ行ってこい!」と送り出しました。
班超は部下の甘英(かんえい)を「もっともっと西へ行ってこい!」と送り出しました。
もっと西って具体的にはどこですか?
「パクスロマーナ」と呼ばれる黄金時代を迎えていた、ローマ帝国です。
ローマ帝国ですか!ついに中国とローマ帝国が繋がるんですね..!
ただ残念ながら、甘英はローマ帝国に辿り着くことはできませんでした。
ええ..。世界史っぽくなってきたと思ったのに…
逆に、ローマ皇帝の使節は中国までたどり着いています。当時の中国史料では、「大秦王安敦」と紹介されているローマ皇帝は、五賢帝最後の皇帝、マルクス=アウレリウス=アントニヌスのことだと考えられています。

党錮の禁 ~宦官の大暴れ~
2世紀の後半になると、後漢は衰退期に入りました。その原因は皇帝の世話役である宦官です。
宦官と言えば、男性器を去勢された人たちですよね。前漢の末期も宦官がでしゃばっていたような…
その通りです。前漢末期は宦官と外戚が政治の実権を握ろうとした結果、外戚の王莽が新王朝を建てました。今度は宦官が大きな動きを見せます。それが党錮の禁(とうこのきん)という事件です。宦官が官僚(政治家のことです)を逮捕し、処刑してしまった事件です。
めちゃくちゃじゃないですか!
黄巾の乱 ~国民は不安です~
宦官が好き勝手するおかげで、後漢の人々には不安が蔓延します。そして不安になった人々がすがるのが宗教です。
宗教の始まりってそういうものですよね…
張角という人物が太平道という宗教結社を始めました。張角は信者とともに挙兵し、黄巾の乱(こうきんのらん)という大規模な農民反乱を起こしました。この反乱は豪族によって鎮圧されましたが、以降は国内各地で豪族が自立する群雄割拠の時代に入り、後漢は滅亡しました。
赤眉の乱と混ざってややこしい…。あれは新が滅亡した反乱でしたね。
確認テスト
答え.劉秀
答え.班超
答え.党錮の禁
答え.黄巾の乱
答え.太平道
古代中国