クシャーナ朝【古代インド】

古代インドの年表
前2600~1800年頃
ドラヴィダ人によるインド最古の文明。「四大文明」の1つ。
前1500~500年頃
アジアから侵入したアーリヤ人による時代。前期ヴェーダ時代と後期ヴェーダ時代に分かれる。
前6~5世紀
小国が分立した時代の2大強国。
前4~前2世紀
インド初の統一王朝。アショーカ王のとき全盛期。
1~3世紀
クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝 今ココ
  • クシャーナ朝:インドの北で、交易によって栄えた王朝。カニシカ王のとき全盛期。
  • サータヴァーハナ朝:インド南部の王朝。クシャーナ朝と同じく交易で栄える。
4~6世紀
インドの古典文化が開花した時代。ヒンドゥー教が定着。
7世紀
ハルシャ王による一代限りの王朝。

ここまでの流れ

 インド初の統一王朝となったマウリヤ朝は、前3世紀にアショーカ王が死去してから衰退しました。マウリヤ朝の衰退と同時に、西北インドには異民族が侵入を繰り返しました。その中からイラン系民族であるクシャーン人が西北インドに進入し、王朝をたてます。

クシャーナ朝はインドっぽくない?

マウリヤ朝の衰退から300年ほど経った1世紀頃、北方のバクトリア地方からイラン系民族のクシャーン人がインダス川流域に侵入しました。クシャーン人は西北インドにクシャーナ朝という王朝をたてました。
地図
普段イメージするインドより北にありますね。

そうですね。クシャーナ朝が北方から進入した異民族王朝であることがイメージできると思います。北に位置していたことは、クシャーナ朝にとってあるメリットがありました。

東西の交易拠点に

当時、五賢帝時代のローマ帝国と中国の後漢が貿易を行っていました。その東西の巨大国の交易路が、ちょうどクシャーナ朝を通過していました。おかげでクシャーナ朝は貿易拠点として栄えることができました。
クシャーナ朝の変わった位置関係だからこそですね。

ガンダーラ美術が花開く

東西との交流が活発になったことで、クシャーナ朝では異文化と混ざり合った美術が生まれました。それがガンダーラ美術です。ギリシャ、シリア、ペルシャ、インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術です。クシャーナ朝の都であるプルシャプラを中心としたガンダーラ地方で始まりました。
美術の分野にも、東西交易が関係しているんですね。

初めて仏像が作られた

顔

日本人にとっても馴染みの深い仏像は、クシャーナ朝の時代に初めて作られました。仏像の誕生は、ガンダーラ美術の最大の成果です。
仏像にしては、やけに鼻筋が通ってますね。

これはギリシア彫刻に影響を受けたことが考えられます。

カニシカ王のとき全盛期

2世紀中頃のカニシカ王のときに、クシャーナ朝は全盛期を迎えました。

ローマの真似して金貨をつくる

東西各国との交易によって、ローマから大量の貨幣がクシャーナ朝に入ってくるようになりました。ローマの貨幣を模倣して、カニシカ王をはじめとするクシャーナ朝の王は金貨を鋳造しました。
クシャーナ朝で使用された金貨の表面(写真の左側)には、王を取り巻くようにギリシア文字が記されています。
貨幣

ちなみにクシャーナ朝の金貨は、重量までローマの金貨と全く同じでした。
よっぽどヨーロッパ文化を尊敬していたんですかね。

仏典結集

カニシカ王はもともと仏教を軽視していましたが、のちに心を改めて仏教を深く信仰しました。仏典結集(仏典の編纂事業)も行いました。

「軽視していた仏教を信仰し始めて、仏典結集を行う。」の流れはマウリヤ朝のアショーカ王と似ていますね。

衰退へ

3世紀に入るとクシャーナ朝は弱体化し、イランのササン朝に制圧されてしまいます。
どうしてクシャーナ朝は弱体化したんでしょうか?

3世紀と言えば、交易のお得意先のローマ帝国も「3世紀の危機」という内乱期を迎えていました。そのローマが内乱によって弱ってしまったことが、クシャーナ朝弱体化の要因の一つと考えられます。


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