神聖ローマ帝国とは? わかりやすく解説

神聖ローマ帝国とは

神聖ローマ帝国とは、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部を中心に存在していた国家です。962年~1806年まで存続しました。

現在のドイツの原型

神聖ローマ帝国は現在のドイツの原型にあたります。地図を見ると、位置的にもほぼ同じであることが分かります。

ドイツと比較

神聖ローマ帝国とドイツ

神聖でなく、ローマでなく、帝国でない

18世紀のフランスの哲学者ヴォルテールは、神聖ローマ帝国を「神聖でなく、ローマでなく、帝国でない」と酷評しました。これはどういうことでしょうか。

神聖でない

神聖ローマ帝国は、もともとは「ローマ帝国」という名前でした。12世紀に当時の皇帝が「神聖ローマ帝国」と言い始め、そこからこの名称になりました。なので「神聖」の定義はかなり曖昧なのです。

ローマでない

神聖”ローマ”帝国と称してはいますが、その領地には都市ローマは含まれていません。この矛盾を解消すべく、「イタリア政策」というローマ奪還運動が建国初期に活発に行われました。

帝国でない

「帝国」ということは、国のトップは皇帝です。しかし神聖ローマ皇帝はイタリア政策に夢中で、肝心の国内の統治まで手が回りませんでした。その結果、国内の各地に有力な諸侯(大貴族)が分立して好き勝手に領邦(領地)を形成していきました。その数は300程にまでのぼります。

成立期~初期

神聖ローマ帝国の歴史を辿っていきましょう。
この国のルーツは、東フランク王国にあります。フランク王国が3つに分裂した後の国の1つです。

オットー1世の戴冠

当時の東フランク国王のオットー1世は、異民族を上手く撃退したことで名声を高めていました。その噂を聞きつけたローマ教皇(ローマ=カトリック教会のトップ)がオットー1世に接近し、ローマ帝国皇帝の冠を授けたのです。この「オットー1世の戴冠(962年)」を神聖ローマ帝国の始まりとみなします。

ローマ帝国をもう一度

800年にも同じように、ローマ教皇がフランク王国のカール大帝に冠を授け、西ローマ帝国の復活を宣言していました(カールの戴冠)。オットーの戴冠は、その再現です。

POINT
教会はあくまで宗教世界の指導者なので、面倒を見てくれる国が必要です。ローマ=カトリック教会は、保護者であるフランク王国が分裂してしまったので、再度保護者探しをしていました。そこに東フランク王国のオットー1世が大活躍しているとの噂が舞い込み、これはチャンスだと踏んだわけです。

イタリア政策

「ローマ帝国の復活だ!」と言っても、神聖ローマ帝国の領地内に都市ローマはありません。この矛盾を解消すべく、オットー以来、10~13世紀の神聖ローマ皇帝はローマを目指して何度も出兵しました。これをイタリア政策と言います。しかし神聖ローマ皇帝がイタリア政策に夢中になるあまり、肝心のドイツ国内の統治はおろそかになっていました。

オットー1世

神聖”ローマ”帝国なんだから、そりゃローマは欲しいでしょ。

大空位時代

イタリア政策で国内統治が手薄になる中、当時の神聖ローマ皇帝を連続で輩出していた一族が断絶すると、皇帝不在の時期が20年間続きました。この時代を大空位時代(1254~1273年)といいます。厳密には非ドイツ人が王として選出されることもありましたが、その影響力は皆無でした。皇帝が不在ですから、この間に国内の有力諸侯たちは権力を増していきました。

金印勅書

大空位時代が終わった後も、皇帝の選出法を巡って混乱状態が続いていました。そこで皇帝カール4世が発布したのが金印勅書(1356年)です。これによって、「7人の有力諸侯の選挙によって神聖ローマ皇帝を選出する」というルールが定められました。
これ以降、選ばれた7人の諸侯(選帝侯)や他の有力諸侯たちは、自分たちの領地(領邦)を帝国内に形成していきました。神聖ローマ帝国の中に小さな国がたくさんある、というイメージです。

カール4世

イタリア政策とかより、国内の統治が大事でしょ。

ハプスブルク家の成長

ロイヤルファミリー

1438年からは神聖ローマ皇帝はハプスブルク家から連続で選出されるようになりました。ハプスブルク家がヨーロッパにおける支配領域を拡大するために使ったのが、婚姻政策です。例えば神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、息子のフィリップをスペイン王女フアナと結婚させることで、ハプスブルク家はスペインへ進出しました。そしてフィリップとフアナの子カールは、スペイン王カルロス1世となり、さらに神聖ローマ皇帝も兼任し、カール5世となりました。

カール5世

神聖ローマ帝国ではカール5世、スペインではカルロス1世と呼ばれておるよ。

イタリア戦争

カール5世はスペイン国王と神聖ローマ皇帝を兼任したので、ハプスブルク家がフランスを東西から挟むような形になりました。
これに危機感を抱いたフランス(ヴァロワ朝)は、イタリアを支配下に入れることでこの危機を乗り越えようとしました。当時のイタリアはミラノやジェノヴァなどの都市が高い経済力を持っていたからです。神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)はこれを許さず、フランスとのイタリア戦争(1494~1559)が始まりました。

戦争終結

イタリア戦争は長期化したので、ハプスブルク家とヴァロワ家は経済的に困窮しました。最終的には、これ以上戦争を続けられない両者がカトー=カンブレジ条約(1559)を結び、イタリア戦争は終結しました。
しかし戦争終結後もハプスブルク家とブルボン家の対立は続き、18世半ばまでヨーロッパの国際関係の主要な対立軸となりました。

イタリア戦争の構図

イタリア戦争

消滅へ

宗教改革

イタリア戦争と同じころ神聖ローマ帝国で起こった問題が、ドイツで始まった宗教改革です。神聖ローマ皇帝側のカトリックと新宗派のプロテスタントで争い、最終的にアウクスブルクの和議で信仰の自由が認められました。しかし帝国内の各諸侯が自由に宗教を信仰するがゆえに、かえって諸侯同士の対立が激しくなりました

三十年戦争

宗教対立が冷めやらぬ中、カトリックを強制する神聖ローマ皇帝に対して、帝国の一部であるベーメン王国が反乱を起こしました。この反乱をきっかけに三十年戦争(1618年~1648年)が始まり、ヨーロッパ各国を巻き込む大規模な戦争になりました。1648年にウェストファリア条約が締結されて戦争は終結し、神聖ローマ帝国内の領邦に主権が認められました。これは各領邦がそれぞれ独立した主権国家となったことを意味しており、神聖ローマ帝国は事実上の解体となりました

ライン同盟

962年から続いた神聖ローマ帝国は、ナポレオンによってとどめを刺されます。
アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破ったナポレオンは、ドイツ諸侯を支配下に入れるためにライン同盟を結成しました。このとき神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は、まだ名目上存在していた神聖ローマ帝国を離脱しました。これを受けて神聖ローマ皇帝フランツ2世は帝位を退き、神聖ローマ帝国は完全に消滅しました。(1806年)

フランツ2世

長年続いた帝国の命も、もはやこれまでか…