オットー1世~大空位時代(神聖ローマ帝国)

神聖ローマ帝国の成立

地図

今回は中世のドイツについて見ていきます。と言っても、現在私たちがドイツと呼んでいる国は当時は「神聖ローマ帝国」と呼ばれていました。その神聖ローマ帝国のルーツは、東フランク王国にあります。
フランク王国が3つに分裂した後の国ですね。

10世紀初め、東フランク王国ではカロリング家の血筋が断絶し、諸侯の選挙によって王が選ばれるようになりました。その中でもオットー1世は、アジア系のマジャール人やスラヴ人の進入を撃退したことで名声を高めました。そこにローマ教皇が接近します。
またローマ=カトリック教会が保護者探しのために近づいてきたんですね。

せっかくフランク王国という強力な保護者が見つかったと思ったら、その後3つに分裂してしまいましたからね。ローマ教会は、また保護者探しをするはめになっていました。そこに東フランクのオットー1世が大活躍しているとの噂が舞い込み、これはチャンスだと踏んだわけです。

ローマ教皇

オットー1世さんは凄いなあ。ローマ皇帝の称号あげるね。
ありがとうございます。光栄です。

オットー1世

ローマ教皇

これからは「東フランク王国」じゃなくて、「神聖ローマ帝国」って名乗ってな。僕らキリスト教とも仲良くしよな。

POINT
962年、オットー1世が皇帝となり「神聖ローマ帝国」が始まりました。
(実際に「神聖ローマ帝国」という呼び名が始まったのはもう少し後のことです。)

バラバラな国家

神聖ローマ帝国はまとまりに欠ける国でした。その理由を解説していきます。

イタリア政策

「神聖ローマ帝国」と名乗っておきながら、実際の「ローマ」があるのはイタリアです何とも腑に落ちませんよね。
確かに。神聖ローマ帝国にローマ要素を感じられません。

この矛盾を解消すべく、10~13世紀の間の神聖ローマ皇帝は、ローマを奪うべく何度もイタリアに攻め込みました。これをイタリア政策といいます。しかし、皇帝がイタリア政策に熱心に取り組むあまり、肝心の神聖ローマ帝国内の政治がおろそかになってしまいました。
国の外ばっかりに目を向けてたんですね。

地図

強大な大諸侯の存在

強力なリーダーシップを持った国王ならば、国はまとまるものです。しかし、神聖ローマ皇帝の権力は強くありませんでした。なぜなら、皇帝はイタリア政策のために国内を留守にすることが多かったからです。
外国にばっかりいる国王に、国民はついていきませんよね。

そんな皇帝の代わりに力を持っていたのが諸侯です。13~14世紀には、諸侯が各地で領邦を形成します。領邦とは、諸侯の領土が発展したもので、事実上の独立国のような状態でした。そして領邦に対しては神聖ローマ帝国の影響力はほとんど及ばなかったのです。
国の中にまた別の国が何個もある状態ですね。それはまとまらなさそう。

大空位時代

混乱期のピーク

神聖ローマ帝国には、事実上皇帝が不在の期間がありました。この期間を大空位時代(1256~1273)といいます。神聖ローマ帝国の混乱期は、この大空位時代にピークに達しました。
POINT
大空位時代は「王権の空いた期間」という意味であり、王は存在していたものの権力がなかった。

金印勅書の発布

大空位時代が終わってしばらくたった後、1356年に神聖ローマ皇帝カール4世金印勅書を発布しました。金印勅書とは、皇帝の選出方法を定めた法律です。金印勅書によって、皇帝を選ぶ権利を7人の選帝侯(皇帝の選挙権を持った諸侯のこと)にのみ与えることを規定したのです。
POINT
大空位時代のような混乱期を再び招かぬよう、皇帝の権威を安定させるためにカール4世は金印勅書を発布した。