フランス革命をわかりやすく解説

フランス革命とは?

フランス革命とは、フランスの王政が民衆によって打倒された一連の事件です。革命を経て、フランスは王政から共和政(王のいない政治形態)に移行しました。
フランス革命の大まかな流れ
身分階級社会で苦しんできた最下層身分が現行の身分制議会を離脱し、特権階級の聖職者や貴族に反発しました。
キーワード
アンシャン=レジーム/三部会/国民議会/テニスコートの誓い
第三身分の動きを抑え込もうとした国王ルイ16世。それに反発した民衆がバスティーユ牢獄を襲撃して、フランス革命が勃発しました。革命運動の中で国王は失策を重ね、国民からの信頼を失いました。
キーワード
バスティーユ牢獄襲撃/フランス人権宣言/ヴェルサイユ行進/ヴァレンヌ逃亡事件/立憲君主政/立法議会
議会の派閥争いを制したジロンド派は、反フランス革命のオーストリアに勝利しました。最後は国王のいる宮殿を襲撃し、王政が停止されて共和政が始まりました。
キーワード
ジロンド派/ラ・マルセイエーズ/8月10日事件/共和政
民衆の目の前で国王がギロチンで処刑されました。その後政権を握ったジャコバン派のロベスピエールは、反対する者を次々にギロチン台に送り込む恐怖政治を始めました。
キーワード
国民公会/国王処刑/第一回対仏大同盟/ロベスピエール
恐怖政治の後、5人で国家を運営する総裁政府が始まりました。しかしリーダーシップに欠ける総裁政府も上手くいかず、軍人ナポレオンによる独裁政権が始まりました。
キーワード
総裁政府/ナポレオン/統領政府/ブリュメール18日のクーデタ

革命前夜 フランス革命の背景

なぜフランス革命が起こったのかは、当時のフランス国内の状況を知ると見えてきます。

アンシャンレジーム

フランス革命以前のフランス国民は、聖職者が第一身分、貴族が第二身分、平民が第三身分と区分されていました。この階級制度をアンシャン・レジームといいます。

アンシャンレジーム
アンシャン・レジームは決して合理的な階級制度とは言えず、人口のほとんどを占める第三身分は苦しい生活を強いられていました。

第三身分

生活が苦しい…いいよなあ上流階級の連中は。
アンシャンレジームの特徴
  • 第一身分と第二身分は免税などの特権がある
  • 第三身分は納税義務あり
  • フランス人口の98%は第三身分

財政難

また当時のフランス政府は財政難に苦しんでいました。国王ルイ16世の先々代のルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建設し、先代のルイ15世も積極的な対外遠征を仕掛けました。そうやって彼らが積み上げていた負債が膨れ上がり、いよいよ首が回らなくなってきていたのです。

国民議会の成立

三部会を招集

財政がとても苦しい、でもこれ以上平民に課税することはできない。そんな状況を打破するため、ルイ16世は遂に特権身分への課税を試みました

ルイ16世

いよいよお金が足りない。特権身分にも課税するしかない。
しかし今まで特権身分として免税されてきた聖職者・貴族が、課税に猛反発しました。そこでこの問題を話し合いで解決しようと、三部会が招集されました。
三部会とは、聖職者・貴族・平民の代表者が出席する身分制議会です。ルイ13世の時代を最後に招集されて以来、175年ぶりに招集されました。

三部会を離脱

三部会を離脱
三部会では「課税されたくない第一身分・第二身分 vs 特権身分にも課税してほしい第三身分」の構図がハッキリとしてしまいました。そこで第三身分は三部会を離脱し、自分たちだけの議会である「国民議会」を作ってしまいました。
議場からは締め出された第三身分は、ヴェルサイユ宮殿に隣接する球戯場に集まり、憲法が制定されるまで決して議会を解散しないことを宣言しました。これを「テニスコートの誓い」といいます。

第三身分

もう三部会いいわ。自分たちだけで議会やるから。
フランス革命の原因 まとめ
  • アンシャン・レジームのもと、第三身分は重税を課せられ苦しい生活を強いられていた。
  • 財政難を乗り切るため、ルイ16世は三部会を招集して特権身分への課税を試みたが、特権身分と第三身分の対立が激しくなった。
  • 第三身分は三部会から独立して国民議会を結成し、憲法制定まで決して解散しないことを誓った。

革命の開始

遂にフランス革命の始まりです。民衆の戦いが始まります。

バスティーユ牢獄襲撃

ルイ16世は国民議会に対抗し、全国から2万人の軍隊をヴェルサイユに集めようとしました。これに対して民衆が武装蜂起してバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発しました。

バスティーユ牢獄
バスティーユ牢獄には弾薬が大量に備えられており、今後の革命運動のためにまずは武力を確保しようという狙いがありました。

フランス人権宣言

フランス革命の勃発直後、国民議会は手始めに人権宣言を採択しました。この文書内では、全ての人間の自由・平等や国民主権など、普遍的な人間の権利が盛り込まれました。ラ=ファイエットたちによって宣言文章は起草されました。国民議会は憲法制定を最終的な目標としていましたが、人権宣言はその前段階として採択されました。

フランス人権宣言(一部抜粋)
  • 第1条:人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。…
  • 第3条:あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。…
  • 第17条:所有権は、ひとつの神聖で不可侵の権利である。…

ヴェルサイユ行進

この頃、凶作によってパンの価格が急騰し、民衆は食糧難に陥ってしまいました。その一方でヴェルサイユ宮殿では国王が贅沢な暮らしをしています。この事態に怒った約7,000人のパリの主婦たちは、「パンを寄越せ」と叫びながら、国王の住むヴェルサイユ宮殿まで行進しました。

ヴェルサイユ行進
主婦たちによってルイ16世と一家はヴェルサイユ宮殿から引きずり出され、パリまで連行されてしまいました。
この事件以降、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、パリ市民の監視下におかれました。

ヴァレンヌ逃亡事件

ルイ16世の妃であるマリ=アントワネットは、実家がオーストリアにあります。革命の進行を恐れた国王夫妻は、変装して別人を名乗って馬車に乗り込み、オーストリアに国外逃亡しようとしました。

マリ=アントワネット

実家に逃げて、この革命を鎮圧するのよ。
しかし途中のヴァレンヌという町で見つかってしまい、逃亡計画は失敗に終わりました。このヴァレンヌ逃亡事件国王は国民の信頼を完全に失ってしまい、王政廃止と共和政実現の流れが強まりました

立憲君主政の成立

ヴァレンヌ逃亡事件で国王の信頼が失墜し、国民議会は憲法を制定しました。この憲法で、「今後のフランスは立憲君主政でいこう。」と決められました。立憲君主政とは「国王は一応存在するけど、憲法や法律で国王の権力を制限する。」という政治形態です。
そして国民議会といえば、テニスコートの誓いで「憲法を制定するまで我々は解散しない!」と高らかに宣言していましたよね。その約束通り、憲法制定をもって国民議会は解散し、新たに立法議会と名前を変えました。

フランス革命勃発~憲法制定 まとめ
  • パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃して、フランス革命が勃発。
  • ヴェルサイユ行進で国王がパリに連行される。
  • 国王がヴァレンヌ逃亡事件で国民の信頼を失う。
  • 憲法が発布され、国民議会解散。

共和政の樹立

続いてフランスは、立憲君主政から共和政へと移行していきます。共和政とは、王様がいない政治体制のことです。

議会内の派閥争い

王様は要る?要らない?

立法議会内で立憲君主派ジロンド派の派閥争いが生まれました。立憲君主派はその名の通り、「王様は別にいてもいいんじゃない?法律で王権を制限すればいいじゃん。」な人たち。対するジロンド派は「イヤイヤ、王様自体要らないって!」な人たちです。

ジロンド派の勝利

この派閥争いはジロンド派が勝利しました。ここからフランスは「王様のいない国(=共和政)」を目指し始めます。

革命運動は対外戦争へ

ここまでフランス国内のこととして進行してきたフランス革命ですが、ここからは周辺国との争いに発展していきます。

フランス革命は困る?

これまでのフランス革命を、周囲の国々は否定的な目で見ていました。それもそのはずで、周辺国のほとんどは王政なのです。各国の王からしてみると、「こんな革命が我が国で起こったら、たまったもんじゃない。」と不安に思っていたのです。

オーストリアに宣戦

共和政を目指すジロンド派は、オーストリアに宣戦布告しました。オーストリアといえば、ルイ16世の王妃マリ=アントワネットの実家です。ヴァレンヌ逃亡事件でも国王一家の逃亡を手助けしたぐらいですから、相当なアンチ・フランス革命の国でした。

革命軍の勝利

革命軍の危機に、救世主!

宣戦布告を受けたオーストリアはプロイセンと手を組み、フランスに侵入してきました。迎え撃つフランス革命軍ですが、平民で構成された軍隊なので戦いに慣れていません。たちまち革命軍は危機に追い込まれ、フランス革命はここに鎮圧されたかと思いきや、まだ終わっていません。フランス全土の義勇軍が続々とパリに集結し、革命軍を援護しました。「俺たちも一緒に戦うぜ」という熱い展開です。このとき義勇軍が歌った「ラ・マルセイエーズ」は現在のフランス国歌になっています。

ついに王政が停止

義勇軍の援護もあり、見事革命軍が勝利しました。また革命軍は国王が住むテュイルリー宮殿を襲撃し、王政を停止させました。この事件を8月10日事件といいます。国王は監獄に収監され、遂にフランスに共和政が樹立されました。

共和政樹立

フランス革命と対外戦争

恐怖政治

国民公会

王権の停止と共に男子普通選挙が行われ、立法議会に代わって新たに国民公会という議会が生まれました。

第一共和政

国民公会の誕生と共に始まったこの共和政を、「第一共和政」といいます。

国王を処刑

第一共和政の最初の大仕事、それはやはり国王の処刑です。共和政を名乗る以上、国王は存在してはいけませんからね。ルイ16世と妃のマリ=アントワネットは、共に民衆が見守る中ギロチンにかけられ、処刑されました。

共和政潰し

ルイ16世処刑の報せを受けて、フランスの周辺王国は気が気じゃありません。「もし自国でも革命が起きて、処刑されたら…」と恐れた各国は、フランスの共和政を潰しにかかりました。イギリスの首相ピットの提唱で第一回対仏大同盟が結ばれ、フランスは全ヨーロッパを敵に回すこととなりました。

ロベスピエールの台頭

周辺国との危機を乗り越えるため、国民公会内でジャコバン派が台頭し、ジロンド派を追放しました。ジャコバン派とは、国民公会の中でも急進的な改革を望む派閥です。ロベスピエールはジャコバン派の中心人物として政権を握り、急進的な施策を実行していきました。

ロベスピエール

フランスは危機的状況だ。急ピッチで改革を進めていくぞ。

反抗する奴はギロチン送り

ロベスピエールは独裁的に革命を進めていきました。革命に反対する動きをしたものは次々とギロチン台に送られ、処刑されました。このことから、ロベスピエール政権は恐怖政治と言われています。

恐怖政治の終焉

しかし恐怖政治は民衆の不満を買ってしまい、ロベスピエールは逮捕され、ギロチンで処刑されました。この事件をテルミドール9日のクーデタといいます。

恐怖政治 まとめ
  • 立法議会に代わって国民公会が成立。第一共和政が始まる。
  • 国王が処刑され、周辺国は第一回対仏大同盟を組んでフランス革命に対抗する。
  • ジャコバン派のロベスピエールが台頭し、恐怖政治を始める。
  • 急進的な施策で民衆の不満を集め、ロベスピエールは処刑され恐怖政治が終了。

革命の終了

総裁政府

ロベスピエールの死後、もう独裁者を生まないように総裁政府が樹立されました。これは、5人の総裁によって運営される政府です。しかし何でも5人で話し合って決めると余計な時間がかかります。結局総裁政府は上手く機能せず、フランス国内はまた混乱に陥ってしまいました。

ナポレオンの登場

ちょうどこの時、エジプト遠征やイタリア遠征で名声を上げていた人物が、軍人ナポレオンです。次々にオーストリア軍やイギリス軍を撃破する姿を見て、国民はナポレオンを熱狂的に支持し始めました。
遠征を終えフランスに帰国したナポレオンはクーデタを起こして総裁政府を倒し、新たに統領政府を立ち上げました。この事件をブリュメール18日のクーデタと言います。10年間続いたフランス革命はここに終了し、ナポレオンの独裁政権が始まりました。