カロリング朝(フランク王国)

中世ヨーロッパ成立期の年表
4世紀~6世紀
ゲルマン人が大移動を開始し、西ヨーロッパ各地に国を建設。
481~751年
ゲルマン人による国家の中で、フランク王国が台頭する。現在のドイツ・イタリア・フランスのルーツ。
751~987年
カロリング朝(フランク王国) 今ココ
「カールの戴冠」により西ローマ帝国が復活。カール大帝の死後、フランク王国は分裂。
8~12世紀
ゲルマン人の一派、ノルマン人がヨーロッパに侵入。北欧が西ヨーロッパ世界に組み込まれる。

ここまでの流れ

クローヴィスが建国したフランク王国は、ゲルマン人国家の中で唯一長生きしました。宮宰カール=マルテルはイスラーム勢力からヨーロッパ世界を守り、その子ピピンはメロヴィング朝を乗っ取り、新たにカロリング朝を創始しました。

ピピン

ピピンの寄進

晴れてカロリング朝を開いたピピンですが、このままではただの王権奪取のクーデタに過ぎません。そこでピピンは、キリスト教ローマ=カトリック教会のトップであるローマ教皇にクーデタを認めてもらいました
クーデタを認めてもらうって、そんなことできるんですか?

要はギブアンドテイクです。クーデタを認めてもらう代わりに、ピピンはローマ教皇に「土地」を差し出しました。ピピンはイタリアのランゴバルド王国に攻め込み、奪いとったラヴェンナ地方を教皇にプレゼントしました。これを「ピピンの寄進」といいます。

ピピン

奪った土地プレゼントするんで、僕のクーデタ認めてください。
土地くれるんやったらええで。フランク王国さん、これからも仲良くしていこな。

ローマ教皇


POINT
「ピピンの寄進」が教皇領(ローマ教皇が領有する土地のこと)の始まりとされている。

カール大帝

フランク王国を強大化

ピピンの子、カール大帝の時代にフランク王国はより強大化し、国土を広げました。
「大帝」と言われるだけのことはありますね。

カール大帝はイタリアのランゴバルド王国を征服し、さらに東のモンゴル系民族アヴァール人も撃退しました。こちらの地図はカール大帝の勢力が及んだ地域です。すっかり大国ですね。
地図

伯にお任せ

広大な領地を治めるために、カール大帝は領土をいくつかの「州」に分割し、それぞれに「」を任命して統治を任せました。

カールの戴冠

カール大帝によって強大な国に成長したフランク王国に、保護者探しに奔走するローマ教会がまたもや接近しました。
POINT
西ローマ帝国の滅亡によって後ろ盾を失っているローマ教会は、トゥール・ポワティエ間の戦いや「ピピンの寄進」によって、フランク王国に接近していた。
フランク王国が好調になると、毎回ローマ教会は近づいてくるんですね。

しかし今度は接近なんてものゃありませんよ。800年のクリスマスの日、ローマ教皇のレオ3世はカール大帝に西ローマ皇帝の冠を授け(カールの戴冠)、一度滅びたはずの西ローマ帝国の復活を宣言したのです。これをもって「西ローマ皇帝はキリスト教を保護する」という約束が交わされたのだと思ってください。
世界遺産

教会

アーヘン大聖堂

カール大帝がドイツ西端のアーヘンに建設した大聖堂。カール大帝は夏は戦場で戦い、冬になるとこの大聖堂と繋がれた宮殿で暮らした。中央に見える箱には、カール大帝の遺骨が納められている。

分裂するフランク王国

カール大帝の死後しばらくして、カールの孫同士がフランク王国の広大な領土を巡って争いました。結局、ヴェルダン条約(843年)、メルセン条約(870年)という2回の条約によって、フランク王国は西フランク王国東フランク王国イタリア王国の3つに分裂しました。
フランク王国の分裂
地図
地図
西フランクはフランスの、東フランクはドイツの原型になってますね。

フランク王国を強大化したカール大帝が「ヨーロッパの父」と称されるのも頷けますね。

分裂後の各国

東フランク王国

東フランクでは、962年にオットー1世を皇帝とする神聖ローマ帝国が成立します。

西フランク王国

現在のフランスにあたる西フランクでも、10世紀末にカロリング家の血筋が断絶してユーグ=カペーカペー朝(987~1328)を開きました。しかしカペー朝初期において王の力は弱く、王の家来である諸侯たちが国内に分立する不安定な状況が続きました。

イタリア王国

イタリアでもカロリング家はすぐに断絶しました。北方からはイタリア政策に熱心な神聖ローマ帝国が何度も侵攻してくるので、国内は混乱しました。その結果、統一感を失ったイタリアではジェノヴァやヴェネツィアといった地方都市が有力になりました