フランク王国をわかりやすく解説

ここまでの流れ

4~6世紀、ゲルマン人が西ヨーロッパへの大移動を開始し、その影響でローマ帝国は東西分裂しました。ゲルマン人が西ヨーロッパで建設した国家のほとんどが短命に終わる中、フランク王国は。

長寿国家フランク王国

クローヴィスの決断

ゲルマン人が建設した国家は、支配する側(ゲルマン人)とされる側(ローマ人)の宗教的対立により、ほとんどが短命に終わりました。

  • ゲルマン人の宗派:キリスト教アリウス派
  • ローマ人の宗派:キリスト教アタナシウス派
しかし、フランク王国だけは長生きすることができました。国王自らがアタナシウス派に改宗したのです。その時の国王が、フランク王国の初代国王、メロヴィング家クローヴィスです。

国をまとめるために自ら改宗するなんて、そんな国王なら国民もついていきたくなりますね。
POINT
ローマ人を支配下に置くことに成功したフランク王国は、ここから中世西ヨーロッパ世界の中心勢力となっていきます。

宮宰カール=マルテルの活躍

王に代わって宮宰の台頭

フランク王国メロヴィング朝では、王家の相続制度は分割相続をとっていました。王に子供が3人いれば、王の領地は3等分されます。つまり、王位を親から子へ継承するたびに王の領地がどんどん小さくなり、王権が弱くなっていくということです。そうして弱体化していく王の代わりに、メロヴィング朝で実権を握ったのが宮宰という王の側近にあたる役職です。

トゥール・ポワティエ間の戦い

ここでイスラーム世界に目を移しましょう。当時のイスラーム世界は、ウマイヤ朝が広大な領域を支配していました。ウマイヤ朝はイベリア半島に侵入してゲルマン人国家の西ゴート王国を滅ぼし、フランク王国の目前に迫ってきていました。

ウマイヤ朝とフランク王国の勢力図

8世紀初頭の西ヨーロッパ

このピンチにフランク王国に登場したのが、宮宰カール=マルテルです。彼は732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝と戦い、見事勝利しました。
POINT
トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国が勝利したことは、ヨーロッパのキリスト教世界をイスラーム勢力の侵略から守ったとも考えられます。

もしウマイヤ朝が勝っていたら、今のヨーロッパはイスラーム教に支配されていたのかもしれない…

カロリング朝

メロヴィング朝からカロリング朝へ

カール=マルテルはメロヴィング朝を倒して新たに王朝を起こす実力も十分に備わっていましたが、宮宰のまま生涯を終えました。その後、カール=マルテルの子であるピピンがクーデタをおこしてメロヴィング朝を乗っ取り、新たにカロリング朝(751~987)を開きました。[/say]

「ピピンの寄進」でクーデタを正当化

晴れてカロリング朝を開いたピピンですが、このままではただの王権奪取のクーデタに過ぎません。そこでピピンが頼ったのがローマ教皇(キリスト教ローマ=カトリック教会のリーダー)でした。
ピピンはイタリアのランゴバルド王国に攻め込み、奪いとったラヴェンナ地方を教皇にプレゼントしました。土地をもらった教皇は、お返しにピピンが正式にフランク王になることを認めてあげました。これを「ピピンの寄進」といいます。

MEMO
「ピピンの寄進」が教皇領(ローマ教皇が領有する土地のこと)の始まりとされています。

カール大帝

フランク王国を強大化

ピピンの子、カール大帝の時代にフランク王国はより強大化し、国土を広げました。
カール大帝はイタリアのランゴバルド王国を征服し、さらに東のモンゴル系民族アヴァール人も撃退しました。

カール大帝の勢力

カール大帝の時代のフランク王国

広大な領地を治めるために、カール大帝は領土をいくつかの「州」に分割し、それぞれに「」を任命して統治を任せました。

カールの戴冠

カール大帝によって強大な国に成長したフランク王国に、保護者探しに奔走するローマ教会がまたもや接近しました。
POINT
西ローマ帝国の滅亡によって後ろ盾を失ったローマ教会は、トゥール・ポワティエ間の戦いや「ピピンの寄進」によって、しばしばフランク王国に接近していた。

フランク王国が好調になると、毎回ローマ教会は近づいてきます。
800年のクリスマスの日、ローマ教皇のレオ3世はカール大帝に西ローマ皇帝の冠を授け(カールの戴冠)、一度滅びたはずの西ローマ帝国の復活を宣言しました。

MEMO
カールの戴冠をもって、「西ローマ皇帝(フランク王)はキリスト教を保護する」という約束が交わされました。
世界遺産

教会

アーヘン大聖堂

カール大帝がドイツ西端のアーヘンに建設した大聖堂。カール大帝は夏は戦場で戦い、冬になるとこの大聖堂と繋がれた宮殿で暮らした。中央に見える箱には、カール大帝の遺骨が納められている。

フランク王国の分裂

カール大帝の死後しばらくして、カールの孫同士がフランク王国の広大な領土を巡って争いました。結局、ヴェルダン条約(843年)、メルセン条約(870年)という2回の条約によって、フランク王国は西フランク王国東フランク王国イタリア王国の3つに分裂しました。
フランク王国の分裂
ヴェルダン条約時の領土分割

ヴェルダン条約(843年)

メルセン条約時の領土分割

メルセン条約(870年)

MEMO
フランク王国は現在のフランス・ドイツ・イタリアの原型です。そのフランク王国を強大化したカール大帝は、「ヨーロッパの父」と称されています。

分裂後の各国

東フランク王国

東フランクでは、962年にオットー1世を皇帝とする神聖ローマ帝国が成立します。

西フランク王国

現在のフランスにあたる西フランクでも、10世紀末にカロリング家の血筋が断絶してユーグ=カペーカペー朝(987~1328)を開きました。しかしカペー朝初期において王の力は弱く、王の家来である諸侯たちが国内に分立する不安定な状況が続きました。

イタリア王国

イタリアでもカロリング家はすぐに断絶しました。北方からはイタリア政策に熱心な神聖ローマ帝国が何度も侵攻してくるので、国内は混乱しました。その結果、統一感を失ったイタリアではジェノヴァやヴェネツィアといった地方都市が有力になりました。