中世ヨーロッパ展開期の年表
1096~1270年
十字軍 今ココ
イスラーム勢力から聖地イェルサレムを奪還すべく、教皇主導で軍を派遣するも失敗し、教皇の地位が揺らぎ始める。東方との交流が活発になり、西ヨーロッパ世界の様変わりのきっかけとなる。
14世紀ごろ~
十字軍失敗を機に教皇権は衰退する。アナーニ事件ではフランス国王にローマ教皇が捕らえられる。堕落する教皇・教会を立て直すべくキリスト教内部からの改革運動が活発になり、後の宗教改革へと繋がる。
西ヨーロッパ世界の拡大
農業革命による人口増加
1000年頃から西ヨーロッパの封建社会は安定期に入りました。その主な要因を2つ紹介します。
封建社会安定の要因
- 気候の温暖化
- 三圃制の普及
三圃制(さんぽせい)とは、耕地を3つに分けて、それぞれ春耕地・秋耕地・休耕地とする土地利用法です。耕地を休ませることで、土の中の栄養を蓄えることができます。

農業技術の進歩により、農業生産が増大しました。それに伴い西ヨーロッパの人口が増加しました。食料がたくさん生産できればその分生きていけますから、単純な話です。人口が増えれば、住む場所が無くなってきますよね。なので西ヨーロッパの人々は外の世界に向けて拡大する動きを見せ始めます。
西ヨーロッパの拡大
- 開墾運動
- 東方植民
- 国土回復運動
- 巡礼の流行
開墾運動
12~13世紀の西ヨーロッパ世界は大開墾時代とも言われます。開墾とは、森林を切り拓いて耕地を広げることです。この開墾運動を主導したのはシトー修道院をはじめとする修道院でした。
東方植民
ドイツ東部にエルベ川という川があります。人口増加により、エルベ川より東の地域にドイツ人が大量に流入しました。
国土回復運動
イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)が行われました。当時イベリア半島にまで侵入していたイスラーム勢力を追い出そうと、キリスト教勢力が抵抗した運動です。
イスラーム勢力を追い出せば、人口増加で不足した土地を確保できますもんね。
巡礼の流行
中世西ヨーロッパでは「巡礼」が流行しました。巡礼とは、キリスト教にゆかりのある場所を訪れることです。
アニメファンの聖地巡礼みたいなものですね。
中世西ヨーロッパの封建社会、その基礎にあるのが荘園でしたね。荘園という閉ざされた世界においては、唯一の情報発信者である教会の権威は絶大でした。やがて荘園に暮らす人々はキリスト教にどっぷり浸かるようになり、「巡礼をしたい!」という欲が高まってきました。
欲が高まっただけですか?実際に巡礼に行けばいいじゃないですか。
それはできません。荘園で暮らす農民は勝手に外出できなかったからです。人々は「巡礼に行きたい。でも行けない。」という葛藤を募らせていました。
十字軍の出陣
きっかけはビザンツ帝国だった
西ヨーロッパが拡大の動きを見せる頃、東方の大国ビザンツ帝国に危機が訪れていました。トルコ方面から強大なイスラーム勢力、セルジューク朝が圧迫してきたのです。さらに最悪なのが、セルジューク朝はキリスト教とイスラーム教の共通の聖地であるイェルサレムを占領してしまいました。
覚えてる?
それぞれのイェルサレム
イスラーム教にとって:イスラーム教の創始者ムハンマドが昇天した地
キリスト教にとって:五本山のうちの1つでありイエスも布教した地
キリスト教にとって:五本山のうちの1つでありイエスも布教した地
困ったビザンツ帝国は、西ヨーロッパ世界に救援要請を出します。助けを求められたローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議(1095年)を開き、イスラーム勢力を倒してイェルサレムを奪還するために十字軍の派遣を決定しました。

十字軍は好都合
十字軍の派遣は、西ヨーロッパ世界にとって都合の良いものでした。巡礼に行きたがっている民衆にとっては、聖地イェルサレムを訪れる絶好の機会です。さらに人口増加による土地不足に悩む領主にとっては、戦争によって新たな土地を獲得するチャンスにもなります。
ビザンツ帝国と西ヨーロッパ諸国の利害が一致したんですね。
POINT
十字軍は、西ヨーロッパ世界の拡大エネルギーを爆発的に加速させました。
教皇の言うことは絶対
十字軍派遣は、教皇ウルバヌス2世の呼びかけで始まりました。じゃあ教皇が軍隊の先頭に立って指揮を執るのかというと、そんな危ないことはしません。教皇はローマに居座ってあれこれ指示を出すだけです。
そんなリーダー嫌ですね…
それでも民衆は教皇には逆らえません。それだけ教皇の権威が絶大だったのです。そういう意味では、十字軍の派遣はいかに当時の教皇権が強かったかを物語る出来事だと言えます。
そういえば、カノッサの屈辱で教皇が神聖ローマ皇帝を懲らしめたのが1077年のことでしたね。
十字軍の失敗
十字軍はローマ教皇が主催者となり、フランス、イギリス、神聖ローマ帝国などが兵を出し合いました。計7回実行された十字軍の派遣を個別にみていきましょう。
第1回(1099年)
第1回十字軍は、全7回のうち唯一成功した十字軍だと言えます。見事にイスラームからイェルサレムを奪い返し、イェルサレム王国(1099~1291)を建設しました。
第2回(1147年)
イスラーム勢力がまた盛り返してきたので、第2回十字軍が派遣されましたが、今度は失敗に終わりました。今後の十字軍は鳴かず飛ばずに終わります。
第3回(1189年)
この頃には、イスラーム勢力の主役はアイユーブ朝に移り変わっています。アイユーブ朝は再びイェルサレムを奪い返し、第3回十字軍が派遣されました。イギリス国王、フランス国王、神聖ローマ皇帝も参加しますが、アイユーブ朝を率いたサラディンとの闘いの末、引き分けに終わります。
第4回(1202年)
第4回十字軍は、最も悪名の高い十字軍として知られています。アイユーブ朝の本拠地であるエジプトを攻撃するために、第4回十字軍は海路からの侵入を試みました。もちろん船での移動になるので、十字軍の人員輸送を北イタリアの都市ヴェネツィアに依頼しました。
覚えてる?
870年にフランク王国が分裂して誕生したイタリア王国はまとまりに欠け、カロリング王位断絶後はジェノヴァやヴェネツィアといった地方都市が独立しました。
いざ出陣!と思いきや、十字軍の参加者は予定していた3万人の約1/3しか集まりませんでした。これではヴェネツィアに支払う船賃が足りません。ヴェネツィアは「お金払えないんだったら、俺たちのライバルのコンスタンティノープル攻撃してよ。」と十字軍に要求しました。
コンスタンティノープルって、ビザンツ帝国の都ですよね。もともと十字軍派遣のきっかけはビザンツ帝国の救援要請だったのに、これじゃ意味不明な行為ですね…
参加者たちが私利私欲に走った結果です。ヴェネツィアにそそのかされるがまま、コンスタンティノープルを占領した十字軍はこの地にラテン帝国を建設しました。
第5回~第7回
その後も、結局十字軍は聖地イェルサレムを奪還することはできずに、およそ200年間に渡って行われた十字軍の派遣は終了しました。
教皇の権威が失墜
十字軍の提唱者はローマ教皇でしたね。しかしあまりにも十字軍が負けまくるものですから、人々は教皇に対して不信感を募らせます。その一方で、十字軍の遠征に同行して指揮をとった各国の国王は権威を高めました。
現場で一緒になって戦ってくれるリーダーには、ついていきたくなりますもんね。