コンスタンティヌス帝をわかりやすく解説【古代ローマ】

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コンスタンティヌス帝
4世紀始めにローマ皇帝を務めた人物。「ミラノ勅令」を発布し、それまで帝国内で迫害されていたキリスト教を公認した。また四帝の内乱を勝ち抜き、ローマ帝国を再統一した。ビザンティウムに都を移して「コンスタンティノープル」と改称した。

これまでの流れ

284年に即位したディオクレティアヌス帝は、広大なローマ帝国を東西に分けて4人の皇帝で帝国を統治していました(四帝分治)。コンスタンティヌス帝の父親は西方の正帝を務めており、父の死後、受け継ぐ形でコンスタンティヌス帝は西方の正帝に即位しました。

ミラノ勅令でキリスト教を公認

ミラノ勅令

313年にコンスタンティヌス帝が発布した、キリスト教の信仰を公認する勅令。

なぜキリスト教を公認したか?

キリスト教はディオクレティアヌス帝の時代まで迫害されてきましたが、それでも帝国内の信者の数は増える一方でした。

コンスタンティヌス帝

いまや帝国中にキリスト教徒がいる。これ以上迫害すると、かえって帝国がまとまらなくなる…
そしてコンスタンティヌス帝はミラノ勅令を出し、ついにキリスト教を公認するのでした。その功績から、コンスタンティヌス帝はのちに「13人目の使徒」とも評されています。

ニケーア公会議を開催

324年、コンスタンティヌス帝はキリスト教初の公会議であるニケーア公会議を開催しました。開催の直前にコンスタンティヌス帝はキリスト教徒であることを宣言しており、会議では議長を務めました。

四帝分治の崩壊

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 コンスタンティヌス帝は西方の正帝を務めていましたが、その間、4人の皇帝は20年間にわたって内戦を続けていました。コンスタンティヌス帝はその内戦に勝ち抜き、ついに単独のローマ皇帝にまで登りつめました。これをもって四帝分治は崩壊しました。ローマにある世界遺産「コンスタンティヌスの凱旋門」はそんな内戦の最中に建てられたものです。

コンスタンティノープルへ遷都

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 四帝分治の時代、東西それぞれの皇帝はローマに拠点を置かず、ローマはもはや行政の中心としての役割を果たしていませんでした。コンスタンティヌス帝は東方の統治を重視して東側にあるビザンティウム(現在のイスタンブール)に都を移し、コンスタンティノープルと名付けました。