アショーカ王~滅亡/マウリヤ朝②【古代インド】

古代インドの年表
前2600~前1800年頃
ドラヴィダ人によるインド最古の文明。「四大文明」の1つ。
前1500~前500年頃
アジアから侵入したアーリヤ人による時代。前期ヴェーダ時代と後期ヴェーダ時代に分かれる。
前6~前5世紀
小国が分立した時代の2大強国。
前317~前180年頃
マウリヤ朝 今ココ
インド初の統一王朝。アショーカ王のとき全盛期。
1~3世紀
  • クシャーナ朝:インドの北で、交易によって栄えた王朝。カニシカ王のとき全盛期。
  • サータヴァーハナ朝:インド南部の王朝。クシャーナ朝と同じく交易で栄える。
320~550年頃
インドの古典文化が開花した時代。ヒンドゥー教が定着。
606~647年
ハルシャ王による一代限りの王朝。

ここまでの流れ

十六国時代が終わり、チャンドラグプタによってインド初の統一王朝であるマウリヤ朝が前4世紀に始まりました。

マウリヤ朝の全盛期

マウリヤ朝は前3世紀のアショーカ王のときに全盛期を迎え、領土が最大になりました。アショーカ王は、マウリヤ朝創始者のチャンドラグプタの孫にあたります。
地図

心改め仏教に改宗

初期のアショーカ王は暴虐な政治を行い、インドの人々から恐れられていました。しかし途中で熱心な仏教徒へ変身し、仏教による政治でマウリヤ朝を治めました
仏教を深く信仰するきっかけは何かあったんですか?

アショーカ王がインドのデカン高原にあるカリンガという国を征服したとき、民間人を含む数十万人の死者を出してしまいました。あまりの悲惨さに、アショーカ王もこの征服戦争を後悔しました。それを機に仏教にのめり込むようになりました。

ダルマの政治

アショーカ王は「ダルマ」による政治を行いました。ダルマとは、仏教における倫理観のようなものです。法律や、道徳なども含まれます。そのダルマの内容で特にアショーカ王が大事にし、率先して実践したのがこの2点です。
  • 不殺生:人間だけでなく、全ての生き物を殺さない。
  • 正しい人間関係:「父母に従順であること」、「年上を敬うこと」、「他人を尊重すること」など
人が変わったように優しくなってますね..

磨崖碑と石柱でダルマを広めるぞ!

アショーカ王

ダルマは素晴らしい。もっともっとみんなに知ってほしい。

磨崖碑

アショーカ王はすっかりダルマに心酔しきっています。しかし、ダルマの教えを国民に広めてこそ一国の王というものです。そこでアショーカ王は全国各地に転がっている磨崖(大きな岩石をイメージしてください)にダルマの教えを刻みました。

石柱

磨崖碑だけではありません。アショーカ王はガンジス川流域に約30本の石柱を建て、そこにダルマを刻みました。石柱の高さは12~15メートル、重さは約30トンです。
柱

国外にも布教

アショーカ王は国内のみの布教に飽き足らず、ダルマの宣伝のみを目的とした役職をつくって、スリランカなどに送りました。

仏典結集で仏教の教えを再確認

アショーカ王が熱心に仏教を保護するものですから、やがて異教徒や不純な動機を持った人間が教団に入ってくるようになりました。そうなると正しい修行ができなくなってしまいます。

アショーカ王

今一度、仏教の正しい教えを理解しなければならない。

そこでアショーカ王は全国各地に散らばっている仏教に関する書物を集め、改めて仏典(仏教の聖書)を作り直しました。これを仏典結集といいます。

アショーカ王の死後、衰退

アショーカ王の死後、マウリヤ朝は分裂と衰退に向かいます。そしてアショーカ王の死から約50年後の前180年に滅亡しました。

分裂の背景に地方の成長

マウリヤ朝の初期は、国内にも地域格差がありました。ガンジス川流域(都のパータリプトラなど)のみが軍事的・経済的・文化的に他の地域を圧倒している状態です。しかし1世紀に渡って帝国が統一される間に、先進地域から地方の後進地域に技術や文化が流出し、マウリヤ朝内部の地域格差が小さくなったのです。これが地方民族の独立を招いてしまったというわけです。
インド史上初の統一王朝であるがゆえに、地域格差の存在がマウリヤ朝にとってはプラスだったんですね。

都と地方がバランスよく発展した結果、分裂してしまうとは皮肉なものです。

確認テスト

答え.回答
答え.仏典結集


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